ある研究会の終わりに、招待されていた先生を寮に連れて行ったことがある。
その先生は京大出身で、寮に遊びに来ていたことがあるようだった。
昔、その先生は寮生と学問について、様々な議論をしたようだ。
「寮でこそ、学際的な議論が出来て、学問が生まれる。寮を守れ」とその先生は言っていた。
その先生は学問的にも人格的にも大変優れた方で、私は心から尊敬している。
ただ、その言い方には少し引っかかるものがあった。
寮は、優れた学問を行う場として残すべきなのだろうか。
ある政治家が「生産性」を基準にして保障を受けるべき人とそうでない人を分けたことが話題になった。正確には、「生産性」が無いにも関わらず、国家がその人たちに対して保障をするのはおかしい、あるいは、保障の「度が過ぎる」ということに苦言を呈したのだった。
「生産性なんて関係ない。全ての人に生きる価値がある。」
口で言うのは簡単である。
だが、上述した政治家のロジックに雷同する人々もいる。
むしろ、「人権」という言葉がもはやその力を失いつつあるようにさえ見えるのが現代である。
吉田寮が今後、生き残るには、「生き残る価値」を示さなければならないのだろうか。
どれほど生産的な人間が生まれたか、あるいは、イノベーションを起こせる人材を輩出できたか、それをアピールすれば吉田寮は生き残るのだろうか。
あるいは、吉田寮は完全なる「被害者」にならなければならないかもしれない。
吉田寮は本当に落ち度がなく、可哀そうな寮生が集まっている、だから、「助ける価値」があるのだと。
こういった考え方は、「寮には生産性が無いから存在価値がない」「寮にも落ち度があるから助ける価値はない」という発想に直結する。
寮が助かるためには、「寮にはノーベル賞級の素晴らしい研究の萌芽が生まれる可能性がある」、あるいは、「寮生は完全に純粋無垢で、全く落ち度がない」という厳しい条件が課せられているのであろうか。
だとするなら、寮に限らず我々ひとりひとりは、常に厳しく自分を律さなければ、いざ自分が困った時に「助ける価値のあるもの」として名前を列挙されることは無くなってしまう。
「寛容」が必要なのかもしれない。だが、それは段々、失われつつあるのかもしれない。
このように書いている私自身にも、それは言えることなのだ。
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