今度、NHKで「ワンダーウォール」というドラマをやるらしい。
http://www.nhk.or.jp/kyoto/wonderwall/
なかなかに面白そうなドラマだと思う。
脚本家の渡辺あやさんが、このドラマについてこんなことを言っている。
「(前略)
私たちの日常は、あるいは社会は、いつのまにか多くの壁に囲まれた、ずいぶん息苦しいものになってしまっているのだな、というのが、若い彼らと話していて、いちばん強く感じさせられたことでした。
壁とは本来、私たちが弱い自分を守ろうとして建てるものなのだと思います。
けれども壁の中に守られるということは同時に、壁の向こうのわかりあえたかもしれない誰かや、ゆるしあえたかもしれない機会、得られたかもしれない強さや喜びを、失うということでもあります。
壁だらけの私たちの社会とは、そうした喜びがすっかり失われてしまった日常と言えるのかもしれません。
それでも私たちの人生は、そんなさびしい現状をあきらめ続けるためにではなく、いつか壁を乗り越え、ふたたび向こう側の誰かとの喜びを、とりもどしてゆくために続くのだと信じたいです。(後略)」
https://otocoto.jp/news/wonderwall/ より
「壁」とは分断であると同時に、防衛のための装置であった。
ベルリンの壁は、互いの政治体制の危険なかたちでの共存のために存在していた。
ある政治家は、移民の「侵入」を防ぐために「壁」が必要だと主張した。
ある作家は、「壁と卵」という講演で、壁に投げつけられ、無残に砕ける卵と壁ならば、自分は卵の側に立ちたいのだ、と言った。
壁。このそびえ立つもの。
我々は、壁が無ければ生きていけない。
我々は、壁があって初めて安心して寝ることができる。
我々は、壁が無ければ「他者」に怯える毎日を過ごす。
我々は、壁があって初めて「自由」になれる。
しかし、壁の向こう側への想像力が絶たれた時、我々にとって「壁」は世界そのものを規定する絶対的な存在となる。
一部の人たちは、気楽に「壁を取っ払おう」と言う。
しかし、現実は気が滅入るほど過酷であり、壁を揺るがすことさえも容易ではない。
壁にぶつかって割れた卵は、「ホラ見ろ、無駄なことを」と嘲笑にさらされるだけである。
それらを冷笑主義と否定し、敢然と立ち向かうこともできるかもしれない。
だが、それだけでは壁はちっとも揺るがないし、壁を必要とする我々も変わらない。
これが我々の生きる社会であり、現実。
呑み込み受け容れ、希望が回復したフリをして笑うしかないのかもしれない。
ドラマがどんなものかは分からないが、久々に観たいと思う作品だ。
答えがそれで手に入るとは思っていない。
だが、「壁」との向き合い方について何かヒントをくれるかもしれない。
放映日には海外にいるので観られないのだが・・・
(録画する予定である)
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