吉田寮問題に関していえば、私は「当事者」の一人である。
吉田寮は、そこに住んでいる人達だけでなく、多くの人にとっての問題である。従って、「当事者」の幅は広いとされる。
そんな私だが、いざ寮生として「当事者」になると、今までの自分の生き方を再考させられている。
今まで私は、Twitterなどで、賢しらに社会情勢の「分析」やら「評論」やらを開陳して、悦に浸っていた(いずれも子供騙しに過ぎない下らないものだった)。
もしも、私が吉田寮生ではなかったら、きっと、「当事者」とは別の立場で何かを言っていただろう。評論家面して、頼まれてもいないのに、さぞご立派な「意見」を述べていたに違いない。
だが、実際にいざ自分が、「当事者」になってみると話は変わってくる。
どれ程ご立派に現状を「分析」して「評論」しても、「お前はじゃあ何をやってるんだ」という言葉がすぐに帰ってくるからだ。
どれ程、寮の現状を分析して冷静に高尚な解説を試みても、当事者として自分がまきこまれてしまっている以上、クダを巻いたところで仕方ない。
口先だけで軽々しく評論を重ねていた自分が、どれ程、醜悪だったかを思い知らされた。
これが、「当事者」になることの辛さ。傍観者ではいられない。
だが、そうは言っても、すぐに「評論家」面した自分が顔を出す。
賢しらに、立て板に水を流すように、つらつらと解説を述べる自分。
この文章そのものも、そうかもしれない。
「すまんが、今はお前の出番じゃないんだ。知恵だけは、拝借するよ」
そう言って、コメンテーターSを引き下がらせ、面倒だが、やるべきと思ったことをやる自分をやっとの思いで引きずり出す。
評論するよりも、自分が「当事者」となって動く方が楽しいこともある。
しかし、そうやって行動している自分にでさえも難癖をつけてくるもう一人の自分。
もちろん、行動している自分が絶対的に正しい訳でも、評論家が絶対的に間違っている訳でもない。
要するに、バランスなのだろうか。
もちろん、他の人から出される色々な意見は有難く拝聴したい。
寮内では出てこない意見もたくさんあるからだ。
でも、「ご意見番」な自分の出番は、もっと少なくてもよいのかもしれない。所々、突っ込みを入れてくれる、大切な相棒だけれど。
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