私の大学院の師匠が編者の一人となって教科書を最近出した。
師匠が担当している章に、おおよそこんな記述があった。
「人権とか権利とかは、残念なことに、今では特権的なもの、既得権益みたいに言われているけど(実際、そういう側面はある)、本当はもちろん違う。それは普遍的なものだし、恵まれない人や力なき人たちを守るために生まれたものである」
吉田寮も、ある意味で「既得権益」なのかもしれない。
タテカンも、ある意味で「特権的」なのかもしれない。
それらを全て剥ぎ取り、抹殺することが「民主化」であり、平等化であり、正義であると考えられている時代が今なのかもしれない。
しかし、それらは全て、本来であれば、弱い者たちが肩を寄せ合って生き抜くために造られたものであるはずだ。誰かが何かを表現したいから作ったものであるはずだ。
」
それがもしも、本当の意味で「開かれていない」ために、「特権化」しているのなら、どうすればよいのだろうか。
答えは無い。吉田寮もタテカンも、多くの人と触れ合うよう努力はしてきたと思う。
足りなかったかもしれない、至らない点もあったかもしれない、稚拙だったかもしれない
しかし、その過程を全て無視して、「偽善的な特権を振りかざす『サヨク』」として片付けるのは少し待って欲しい。
私自身、寮生として、寮の中の人の意見全てに賛成という訳ではもちろんない。
思うところもたくさんある。
ただ、その葛藤や悩みを、「嘲り」や「罵倒」で貶斥しないで欲しいと思う。
寮も、全ての意見に完全に寛容かと言うと、そうではない面もある(人に依るが)
私自身、もっと色々な意見に耳を傾けるべきだったと反省している。
だから、何かが明日から変わる、とも断言できないのだが、吉田寮もタテカンも、自らのあり方を問われて、何かを生み出そうとしているとだけは言える。
それが何なのかは分からない。意味があるかもしれない。意味がないかもしれない。
しかし、それは「何か」ではある。
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