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「熱狂と冷笑のあいだ/投稿者S」残り3日


大学当局が提示してきた「退去期限」まで残すところあと僅かとなった。


10月1日から、何が始まるか分からない。


知り合いの先生、知人から「どうなるの」というメールや連絡が相次ぐ。


吉田寮はこの数か月、様々なイベントを行ってきた。たくさんの人が来た。


皆、吉田寮は残ってほしい、と言っていた。大学当局のやり方はあまりにおかしい、と。


まじめな話もしながら、お祭り騒ぎで皆で楽しんだ。皆で飲む酒は美味しく、話も弾む。

私も大いに楽しんだ。元来、お祭り騒ぎは好きな性分だから。


ただ、そんな中で、吉田寮のことを憎んでいる人たちのことを考えた。


彼ら彼女らは、市民運動やら学生運動やら学生自治といったものを根本的に嫌っている。

それらは、血塗られた内ゲバに彩られた暗黒の歴史を象徴している。


自分勝手で、愚かで、頭でっかちな理屈を振りかざし、社会を変えることなく消えていったとされる、学生自治を再演しようとしているかのように見える吉田寮は、消えて当然の存在だと思われている。


「吉田寮はもう無くなりますよ。学生運動の末路はこんなモノですね。」

「誰も拒まないと言いながら、自分勝手な排除の論理をつくって喚いているだけ」

「どうせ大学と戦っても勝てやしない。諦めろ」


こんな声が聞こえてくる。どこからだろう。それは、外からの声でもあったし、私自身の声でもあったということを、正直に告白したい。


私は学生運動やらデモやら学生自治というのが、実はあんまり好きではない。


「自分たちこそが正義なんだ」という清々しさの背後に感じとられる狭量さが嫌いだった。

「当事者を排除するな」という言葉に隠されているように見える、独善性が嫌いだった。

「自治」を振りかざしながら、簡単に綻びを見せてしまう未熟さが嫌いだった。


これらの言葉に従って、寮の運営をしている人たちを否定したい訳では無い。

実際、私の生活も、これらの言葉に支えられて豊かなものになった。

これらの言葉のお陰で、救われている人たちもたくさんいる。


それらは、寮自治に関わる中で出来るだけ多くの人達を助けたい、という真摯な営みを続けている人たちの、かけがえのない努力によって成立している。

私はそういった取り組みに携わる人たちに最大限の感謝をし、敬意を払っている。


しかし、それでもなお、私は吉田寮に住みながら、吉田寮の文化に、好きになれない面がたくさんあったのだ。


もしも、吉田寮に住んでいなかったら、私は寮の運動を冷笑し、所詮は消えゆく運命にあるのだ、と華麗に評論してみせただろう。


実際に住んでみて、寮が好きになったのだろうか。そういう側面も確かにある。


ただ、私はやっぱりまだ、寮には嫌いな面がある。好きな面もある。

嫌いな面も、好きな面も、どんどん増えていく。


私はこの頃思う。


寮に住んでいて、寮を憎む人がいてもいいのではないか。

寮に住んでいて、寮生が嫌いだという人がいてもいいのではないか。

寮に住んでいて、寮の文化なんて反吐が出る、という人がいてもいいのではないか。


そういう人たちにとっては、きっと居づらい場所だったのかもしれない。

私はというと、都合よく騒ぎ、都合よく文句を言って、それなりに暮らしてきただけだ。


吉田寮は、これからどうなるか分からない。


きっと、寮を憎んでいる人たち、バカにしている人たち、嘲笑っている人たちは、寮が滅びるのを今か今かと待ち受けているのだろう。


私は彼ら彼女らを決して否定しない。否定したくない。

なぜなら、それは私自身でもあるからだった。

たとえ、そこに住んでいたとしても、距離をとって冷笑したがる自分の卑しさ。


時に熱狂し、時に肩をすくめる。


私の寮生活は、そんな風に語れるものかもしれなかった。


まだ終わりではないけれど、この想いを、書いておきたかった。


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